
その頃の実話のような雰囲気 - 衝撃的でドラマティックな展開があるわけではないが、とてもリアルな展開とキャラクターの人間臭ささがあるため、読後数ヶ月経った今も妙に生々しく記憶に残っている。あらゆる面で空虚に満ち、心情によって変化する情景は文学的。ギャツビーが纏ったあの要素は誰しも投影できるモノだが、彼はとてもスマートで本物以上に魅力を放ちセクシーだった。それにしても村上氏の翻訳は素晴らしく、ウッカリすると翻訳本ということを忘れてしまう程、紡いだ作品を丁寧に織り直している。
「男は初恋の女性を忘れられない」という「普遍的事実」について - 村上春樹の新訳による十数年ぶりの再読。私は彼の翻訳を必ずしも好まないが、この作品は満を持しての出版だけに、日本語としてよく練られ、大変優れていると思う。「男はなぜ初恋の女性を忘れられないのか」ということが方々で論じられるほど、これは普遍的事実であるらしい。一方で、かなり理知的な判断のできる女性が、そういうことを「気持ち悪い」と表現したのを聞いた経験がある。左様に、この件についての男女差は大きいのかと思う。環境の違いであるのか、生得の資質の差なのか。私は後者の可能性を考える。これは要するに「過去」と「現在」との相克であり、種の保存について女性の方が必然的に現実的たらねばならないという事情があるように思えるのである。儚い過去よりも現実の、眼前の男性の方が、子孫を残すには有効であるからだ。ギャツビーは結局「過去」に殉じたのである。思い出の女性は年老いることもなく、よき記憶のみが時とともにより美しく輝きを増し、当の女性さえ支えきれない虚像となって、ギャツビーの心を支配したのである。デイジーは当たり前の女性として「現在」を選んだに過ぎない。男性にとってこの作品は、限りなく切なく美しい。しかし、女性にとってはどうなのだろう。「気持ち悪い」作品でなければいいが、と思う。
愛する女性を捨てるのか、取り戻すのか、最後には何も残っていない。 - 私は、村上訳シリーズ(?)を読みました。出版順ではなくて「ロング・グッドバイ」「ティファニーで朝食を」に続いて三冊目です。フィッツジェラルドを初めて読むわたしにとって、彼特有の秀逸な言い回しに慣れず、リズムに乗れなくて、前半は読むのがきつく感じられました。しかし、中盤以降は一気に読み終えることができました。文章への慣れもありますが、それ以上に、主人公同様に、ギャッツビーという人に引き込まれたからだと思います。現代風に言えば、ストーカーと目されてもしかたのないギャッツビーには、どこか現代にも通じる人間の縮図を感じました。ふと、村上氏が「ロング・グッドバイ」のあとがきで、「著者はこの小説を書くに当たって、フィッツジェラルドの<グレート・ギャッツビー>のことが脳裏にあったのではないか」といった内容のことを書かれていることを思い出しました。ロング・グッドバイのラストで、テリー・レノックスが自分の左胸を指して、かつてここにはたしかに何かあったんだ(でもいまは何もない)と言うのですが、それと同様に、ギャッツビーにも、かつて何かがあったはずんです。今は失ってしまった何かが。前者は愛する女を捨てて金持ちになり、後者は愛する女を取り戻すために金持ちになります。いずれも裏街道と手を組んで、何かを捨てているところは同じです。
色鮮やかな描写 - すごい、これ。わたしの大好きな「ノルウェイの森」の中で、名前だけ出てきた小説の訳本。村上春樹さんの熱い思い入れが、ひしひしと伝わってきました。とっても。あまりにも「完成された」英文を、その美しい文章の風味と、意味を損なわずに異なる言語に移し変えるというのは、至難の技だったと思います。この翻訳を決行できるようになるまでに、20年もの歳月を必要としたとのことで、村上先生にとっては、すごく意味のある重要な仕事だったようです。そのおかげか、この小説の魅力を余すことなく堪能することができる訳本に仕上がっています。独特の表現も良かった。繊細な描写でもクリアカットに表現されるのではなく、なんの脈絡もなく暗示的、多義的な言葉が綴られていたりするけれど、そこに読み手が介入するスペースがあり、想像力を大いに刺激されます。だから、細部を丁寧に感じ取ることができるというか、感覚的に読み取ることができて、印象として後まで残り易いのだと思います。まるで一本の映画を観たかのように、各シーンが色鮮やかに蘇ってきます。人物の描写も生き生きしていて、セリフの流れをみても細部に拘りを感じました。リズムをつけ、素敵なメロディのように流れていく。シーンごとに、大きく音色が変っていくけれど。皆、この本の中で生きているのだと思う。でも、こんな恋ってあるだろうか?ギャツビーは、デイジーへの愛を貫く為だけに生きてきたようなもの。そのために、どんな方法をとったにしても。なんて純粋な、そして、なんて哀しい恋なのだろう、、、。そのうち、原文でも読んでみたいです。
現代の語り口にするにはちょっと無理があるかな。 - なにしろ80年前の小説です。村上さんはよく「翻訳の賞味期限」をいい、現代語で訳文を書くことに努力され、本書も、たとえば会話で語り手が相槌をうつ場合「そうなんだ」と訳す箇所がありますが肯定文なのか相槌なのか分かりにくかったりします。わたしには大貫訳の方が1920年代風でしっくりきます。もっとも、新たに翻訳するということは、すなわち現代風の言葉使いにするということなのでしょうけど。うーん、村上さんの翻訳は、カポーティとカーヴァーがもっともマッチしていると思いますし、好きです。サリンジャーのケースも村上訳としてはあまり評価できなにのですが、やはり、原作の年代がもっと新しい方が読んでいて違和感を感じません。